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本間合同法律事務所
弁護士・税理士 坂 田 真 吾

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租税法解釈の方法論(佐藤英明教授の分析を読んで)前編
(r3/5/27更新)

1 法解釈の方法論
 

 

 有斐閣から本年3月に刊行された『法解釈の方法論ーその諸相と展望』という書籍があります。

 

 当該書籍は、法学の各分野の第一線の学者の先生方が、当該分野の法解釈はどのようなものか、それらは他の分野のそれと同じものか、異なる面があればなぜか、同じ面があるとしてもどうしてか(「はしがき」より要約)、などを掘り下げた論稿を収録したものです。全体的に非常にハイレベルで難しいのですが、興味深く勉強させて頂いています。
 

 たとえば、「商法学における法解釈の方法」という田中亘教授の論稿は、効率性を価値基準とする経済分析を法律論に積極的に取り入れるという立場から、会社法関係の最高裁の理由付けについて批判的に検証するなどしています。

 そして、租税法学の分野では佐藤英明教授による「最高裁判例に見る租税法規の解釈手法」という論稿(以下「佐藤論文」といいます。)が収録されています。

 とても参考になる分析が記述されているので、以下、備忘をかねて整理させていただきます。またその分析からすると私の問題意識も浮かび上がってくるので、そちらは次回以降申し述べます。

 (なお、インターネット上でも、佐藤教授の講演録(「最高裁判決から見た租税法の解釈適用」)が入手できます。)

 

2 佐藤教授の分析

(1)学説史、厳格解釈の立場

 佐藤論文は、租税法の解釈手法について、まず学説史を概観します。

 具体的には、大きな対立軸として、租税法規の解釈は文理解釈の範囲に留まるべきであるとする考え(「厳格解釈の立場」)と、課税対象の経済的実態に即し文理を超えた柔軟な解釈が求められる場面を認める考えがあるとします。そして、戦前は後者の考えが通説でしたが、戦後の、とりわけ1970年代以降は、前者のような立場が通説として確立したとします。

 なお、厳格解釈は租税法律主義から導かれますが、それにも、民主主義的側面と自由主義的側面があると指摘します。

 かみ砕くと、租税法規は国民が国会を通じて制定したのだから文理どおりに厳格に解釈するのが民主主義の要請であるとするのが前者で、租税法を文理どおりに厳格に解釈することによって経済活動の自由を確保すべきであるとするのが後者である、と言えると思います。 

(2) 最高裁判決の傾向

 次に、佐藤論文は、最高裁判決の流れを分析します。

 佐藤論文は、現在の最高裁判例は、一定の租税回避の事案を除くと租税法規の解釈を文理解釈に限る、いわゆる厳格主義の手法を採用していると考えることができる、としています。

 逆に、平成20年ころより以前の最高裁判決は、一貫した立場を有していたようには思えないとして、サンヨウメリヤス土地賃借事件(最高裁昭和45年10月23日判決)、レーシングカー物品税事件(最高裁平成9年11月11日判決)をあげて、厳格解釈から離れて課税対象の実態に即した課税を是認するとか、背後に課税の必要性を控えた拡張解釈を行った例と考えられている、などと評しています。

 そして、現在の厳格主義を示す例として、ホステス報酬源泉徴収事件(最高裁平成22年3月2日判決)、堺市溜池跡地事件(最高裁平成27年7月17日判決)、武富士事件(最高裁平成23年2月18日判決)などをあげています。これらの事例はいずれも高裁判決を破棄した納税者逆転勝訴の事例ですが、「高裁判決が、いずれも妥当ないし適切な事案の解決を目指して法の解釈や適用の「職人芸」を見せていた」のに最高裁がそれを否定したと評しています。

 佐藤論文は、その最高裁の立場の拠り所を、上記の租税法律主義の「民主主義的側面」に読み解きます。

 すなわち、少し長くなりますが重要なところなので引用すると、「租税法規の解釈に関する裁判所の謙抑的な立場に求め、租税法律主義との関係では課税要件法定主義(民主主義的側面)を重視している」、「大島訴訟上告審判決(筆者注:最高裁昭和60年3月27日判決)に現れているとおり、租税立法に関して判例は立法府の政策的、技術的な判断を尊重し、立法権に対して非常に謙抑的な態度をとっている。近時の判例の厳格主義の手法も、この司法権の謙抑性に由来するものと考えることができる。すなわち、何を課税対象とし何を非課税とするか、などの判断は立法府が行うべきであり、裁判所が自らの評価でその判断基準を変更(上書き)すべきではないとする立場である。そして裁判所が何からそのような立法府の判断を読み取るかといえば、それは日本語で記述された租税法規から読み取るのであり、したがって、租税法規の解釈は、日本語としての自然な解釈や他の法令との関係での自然な解釈にとどまるべきである(その結果不合理な結果が生じたとしても、それは立法府の意図または責任である)、と解するのである。」と、最高裁の現在の立場を分析しています。
 

(3)佐藤論文による「基準」

 そして、佐藤論文は、現在の最高裁の態度を、「日本語について健全な言語感覚を有する法律家」という抽象的な人間による当該文言の解釈と考えることで、その多くが説明できる、とします。

 すなわち、

(ア)解釈の対象となる文言が一般的な日本語であって、

 (a)その意味が熟している(一般の日本語話者の間に共通の了解がある)場合【筆者注:ホステス報酬源泉徴収事件の「期間」など】には、特に制度趣旨等を考慮することなく日本語としてのその語の自然な意味に解し、

 (b)その意味が熟していない(一般の日本語話者の間に必ずしも共通の了解があるとは言えない)場合【筆者注:ガイアックス事件(最高裁平成18年6月19日判決)の「炭化水素油」など】には、制度趣旨等を考慮してその語の解釈を行う

 ことが原則であるとします。その上で、

(イ)解釈の対象が取引法などの他の法分野ですでに意味内容が確立した用語である場合には、法律家として当然の理解に従い、(それが一般の日本語話者の了解とズレていても)すでに他の法分野で確立した意味内容のものとして理解する

 としています。

 この(イ)にはいわゆる借用概念(租税法規において取引法を中心とする他の分野で意味内容が確定した法律用語が用いられている場合のその概念。その上で、いわゆる統一説は借用概念は租税法でも同じ意味内容のものとして解釈すべきと主張する。)に対する判例の態度が含まれる、とし、また、堺市溜池跡地事件における「現に所有する者」、不動産取得税特例要件事件(最高裁平成28年12月19日判決)における「建物」の意義なども、法律家としての当然の理解に従って解釈した例としてあげられています。

 

(4)民主主義的側面、司法の謙抑性

 このように、最高裁が現在採用していると考えられる厳格解釈の手法は、柔軟な解釈を認めず、具体的な事案について課税の公平などの観点にたった適切な解釈を導きにくいという欠点があります。

 佐藤論文は、最高裁は、「あえて言えば、裁判の結果に「無頓着」にすら見える」と評価します。

 そして、なぜ、最高裁がそのような結果を容認するかについては、上記のように、租税法律主義の「民主主義的側面」や司法の謙抑性に由来すると分析しています。

 そして、厳格解釈の手法は、納税者の予測可能性を重視する自由主義的側面からも主張されるのですが、佐藤論文は、最高裁が厳格解釈の手法を採用するのは民主主義的側面の重視によるのであり、予測可能性の重視や自由主義的側面はあくまでも結果に過ぎないと位置づけるべきであろうとします。

(5)租税回避事案での「納税者の予測可能性」

 ただし、佐藤論文は、最高裁は、租税回避事案(たとえば外国税額控除余裕枠りそな銀行事件(最高裁平成17年12月19日判決、ヤフー事件(最高裁平成28年2月29日判決))においてはかなり一般的な租税回避否認を認めているが、そこには、「租税回避を行う当事者が、租税回避行為であることを認識していれば、それを否認しても当事者の予測可能性を害することはなく、租税法律主義に違反しないとする理解」があると分析しています。

 上記のように租税法規の厳格解釈採用の主たる根拠にはなっていない自由主義的側面(納税者の予測可能性の重視)が、租税回避事案においては、逆に柔軟な解釈によって否認することが租税法律主義違反とならないロジックとして利用されている、としています。

 

3 佐藤論文から得られる示唆

(1)実務家にとっての示唆

  佐藤論文は、最高裁による租税法規の解釈態度を分析したものですが、とりわけ、租税法律主義の民主主義的側面、自由主義的側面が裁判官の判断にどのように影響を与えているかをあざやかに切り取って見せたもので、目から鱗が落ちる思いで味読しました。

 実際の税務訴訟でも、しばしば、「こんな解釈をしたら納税者の予測可能性を害する」と主張することがあります。当該納税者からすれば、不明確な課税要件を適用されようとしているときに、「そんなのは条文から読み取れないではないか」と感じるのは至極普通のことなので、それを裁判用語にすると納税者の予測可能性を害するから租税法律主義に反する、という主張となり、それはそれで意味があることと思います。

 ただ、佐藤論文が分析するように、裁判官の心理が民主主義的なルール形成の重視や司法の謙抑性であるならば、その視点も加えて主張するべきであるということになるでしょう。また、「日本語について健全な言語感覚を有する法律家」というものを想定した解釈方法の分類も意識して主張することが大切といえそうです。

 

(2) その先へ

 ただし、現在の最高裁の解釈態度は以上のように分析できるとしても、話はここで終わりません。

 その解釈態度について、「はたしてそれでよいのか」という疑問は生じます。

 次回はその疑問について考察したいと考えます。